毎日新聞・顔なきシステムと闘う(覚書として)
「なんとなくそうなんじゃないかなー」
と思いつつも
自分の脳みその容量がちいさすぎて
うまく言葉にまとまらなかったものが
毎日新聞の「時代の風」(斉藤環・精神科医)にうまくまとまって
載っていたので
覚書として
一部記しておきます。
しかし、もはやエビデンス(根拠)を待つ段階ではない。東京電力による「想定外」、ないし、「人災ではない」といった
”いいわけ”によって決定的になったのは、絶対に無事故の原発が原理的にありえないという事実だ。だとすれば原子l力発電所は、ただそんざいするだけで私達の生を確率によって汚染するという‘原罪’を帯びることになる。
もちろんその電力を求め消費したのは私達だ。しかし性急に自己責任を問う前に、考えておきたいことがある。
この種の「原罪」は、もはや単純に、自然にも人間にも帰すことが出来ない。ジャンピエール・デュピュイはそれを
「システム的な悪」と呼ぶ。(「ツナミの小形而上学」岩波書店)。
「私達の行く手を阻む大災禍は人間の悪意やその愚かしさの結果というよりも、むしろ思慮の欠如の結果だ。
そこでの悪は道徳的でも自然的でもない。その第三者的な悪を、私はシステム的な悪と呼ぼう。(デュピュイ、前掲書)
デュピュイはこの「システム的な悪」について、来日公演でドイツの哲学者ギュンター・アンダースの予言的な言葉を引用している。「われわれのせいで、黙示録的な脅威にさらされているのに、世界は悪意なき殺人者と憎悪なき被害者が仲良く住む楽園の姿をまとう。そこには一欠片の悪意も見当たらず、あるのは見渡すかぎりの瓦礫ばかりである」。
これはヒロシマ・ナガサキの光景についての言葉だが、ここに「3.11後の日本を重ねずにすますことは難しい。
システム的な悪。原発事故はその最悪の象徴である。私達がその存在を求め、依存し、あるいは依存している事実すら忘れていた「電力システム」のもたらした「悪」。このシステムには顔がない。それは神のように遍在しながら同時に私達の分身でもある。ここで生じた悪は私達全員を共犯関係に巻き込み、全員が共犯であるがゆえに、ただちに「責任」はうやむやになる。
そう、放射線をあびるまでもない。システムはすでに私達を匿名化し、とうの昔に確率的存在にかえてしまっていたのだ。
デュピュイは講演で次のように主張する。システムの悪における責任の問題を考えるという困難を乗り切るためには「象徴的思考」に訴えよ、と。フィクションとしての集合的主体(「私達」や「原子力ムラ」などの)を想定することが、それを可能にするだろう。
顔をもたないシステムに対抗すること。それは私達が「顔」や「名前」をもつ存在として「声」をあげることを意味するだろう。すでに都内では数万人規模の反原発デモが繰り返されている。この種の運動が久しく見られなかった「楽園」において、これは喜ばしい兆候だ。支援と擁護と参加をもって、その歴史的意義への肯定に代えたい